瑠駆真の声が耳に響き、同時になぜだか胸がチクリと痛い。
僕が君を、幸せにしてあげる。
違うよ瑠駆真。幸せは、こうやって掴むんだよ。父親の事や学校の事、いろんな事に悩んだけど、そういう悩みの中に、幸せな仕掛けがちゃんと隠されているんだよ。
悩んだり迷ったりする中に、ちゃんと幸せが仕掛けられているんだ。
霞流が声を掛けたのは、そんな美鶴が視線を落とした時だった。
「少し遠いが、この後、海の方まで行ってみませんか?」
海?
ぼんやりと疑問に思いながら、だがその場の雰囲気に流されるように、あまり深く考える事もせず、美鶴はコクリと頷いた。
「海は、久しぶりです」
霞流はゆったりと足を止める。
視線の向こうには、大きなタンカーやらクレーンやら。夜景と言えるような景色ではないが、むしろ眩しくない明かりが心に落ち着く。
美鶴も霞流にならって足を止め、風に顔を向けた。逆に霞流は少し視線を下げ、ポツリと呟くような声で問う。
「そろそろ、お話頂けますか?」
あまりに自然で、美鶴はさほど驚かなかった。あぁ そうだよな、やっぱり話さなければならないよな、などと、妙に納得してしまう。
海風に靡く金糸が淡い。端正な横顔も夜闇に溶け込み、まるでこの時間は霞流慎二の為に用意されたのではないかと思いたくもなる。
「別に、お話したくないと言うのでしたら構いませんけど」
などと丁寧に気遣われると、むしろ話さなければといった義務感に苛まれる。だが、いざ話そうと口を開くと、どこからどう話をしてよいものやら。
母との事? 父の事? 瑠駆真の事?
どれも口に出してしまうのが恐ろしくて、このまま黙ったまま、記憶の底に埋めてしまって、できればなかった事にしてしまいたい。
口を半開きにしたまま躊躇う美鶴に、霞流はチラリと視線を投げる。
「学校から、自宅謹慎を受けられたそうですね」
あぁ、そうか、木崎さんから聞いているんだな。
美鶴は無言で小さく頷く。
「かなり変わった学校ですから」
「唐渓を知っているんですか?」
聞いてから、愚問だったかと後悔する。
この辺りでは名の知れた学校だ。知っていてもおかしくはないし、ひょっとして――
美鶴の閃きを、霞流はあっさりと肯定する。
「僕も通っていました」
やっぱり。
霞流の言葉に一抹の疑問も抱かず、美鶴はやや視線を落す。
「そうですか」
霞流さんも、あの学校に通っていたのか。
目の裏に、自分を嘲笑う同級生の姿が浮かぶ。だが、その姿と今目の前に佇む青年とは、どうしても重ならない。
ふと耳の奥で、快活な少女の声が響く。
「唐渓のバカども相手に善戦してるようじゃない。私、そういうの好きだよ」
ツバサのような生徒も存在する。なにも、すべての唐渓生が横暴だとは限らない。
一方、美鶴の次の言葉をしばし待ち、待つ必要もないかと判断した霞流が再び口を開く。
「辛いですか?」
小さく、美鶴の首が動く。霞流は、そんな美鶴へは視線を向けず、対岸のタンカーのライトをぼんやりと見つめる。
「唐渓での生活は、辛いですか?」
辛い…… のだろうか?
同じような事を、瑠駆真にも聞かれた。
「何か辛い事があったのか?」
唐渓での生活を、楽しいと感じた事はない。
「失礼かとは思いますが、あなたのような方には、あの学校が向いているとは思えない」
失礼もなにも、その通りだ。本来、美鶴のような人間が通うような学校ではない。
「通えば、むしろ軋轢を生むだけかとも」
ごもっともです。
反論などできるはずもなく、もはやわざわざ肯定する必要もないほど明確な言葉に、美鶴はなんだかホッとした。
なぜだろう? 痛いところをズバズバと言い抜かれているのに、腹も立たない。相手が聡やら瑠駆真だったら「お前には関係ないだろ」などと反発するはずだろうに、なぜだか今は、むしろ笑える。
思わず、口元が笑ってしまう。
「何か、おもしろいことでも?」
「いえ」
慌てて口元を隠し、俯く。
「その通りだな、と思って」
ただでさえ不向きな環境なのに、よりによって美鶴は、周囲との摩擦をわざと起こしているのだ。円滑な学校生活など、望めるはずはない。
「やはり、あそこでの学校生活は、それほど楽しくはないのですね」
霞流の言葉に頷きそうになり、だが美鶴は躊躇った。
もともと、楽しい生活などを望んでいたわけではない。爪弾きにされる事を自ら志願したようなものだ。なのに自分は、その環境を変えたいと思ってしまった。父親が見つかれば、自分の環境は変わるのではないかと、思ってしまった。
やはり自分は、辛いのだろうか?
「辛いのなら、時として逃げてしまってもよいのですよ」
その言葉に、美鶴は大きく目を見開いた。あまりの言葉に声も出ず、霞流を見上げる事すらできない。
驚愕する美鶴の表情に、霞流は瞳を細める。
「逃げる事が、悪い事だとは限らない」
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